Subject   : カルタゴ(carthage)

カテゴリー  : 歴史  


 カルタゴ(carthage)
 フェニキアの王女エリッサは、兄のピグマリオンに夫を暗殺され自分も命を狙われた。彼女は財宝を船に積み、ティルス(レバノンのスール)を脱出してキプロス島に逃げた。ここで人員を補充し、地中海を西に進んでチュニス湾にたどり着いた。  

チュニス湾が気に入ったエリッサはここに落ち着くことに決め、町を建設した(BC814年)。カルタゴとは、フェニキア語でカルト・ハダシュト、新しい町という意味。

 エリッサがカルタゴを建設する時、現地人は牛皮(ビュルサ)1枚で覆える土地を譲ろうと言った。彼女は、「では」と言ってその皮を細くひも状に切って、ぐるっと広い土地を囲った。

 エリッサは町の基本法を制定した。権力は二人の最高官に配分され、貴族と一般市民には一定の権利が与えられた。この法律はアリストテレスも絶賛する優れたもので、7世紀以上にわたるカルタゴの繁栄を支えた。エリッサは別名ディド(迷える人)といい、ローマの詩人ウェルギリウスは、叙事詩アイネアスの中でディドとアイネアスの恋を描いている。

 すぐれた航海術を持つカルタゴは地中海貿易を独占し、一大経済大国となった。サルデーニャ島、マルタ島を領有し、シチリアにも進出していった。

 シチリアにはシラクサやメッシーナなど多くのギリシア植民都市があった。カルタゴはシチリアをめぐってギリシアと争う。これが3次にわたるシチリア戦争(BC480〜BC280)で、シチリアの西半分を支配下においた。

 BC265年、カルタゴとシラクサが同盟してメッシーナに侵攻した。メッシーナはローマに救援を求め、ここに3次にわたるローマとカルタゴの戦い:ポエニ戦争が始まった。 (ポエニとはフェニキア人に対するローマ人の呼称)

● 第一次シチリア戦争
カルタゴは海賊や他国が恐れる強力な海軍力を有していた。カルタゴの進出と覇権の拡大は、地中海中央部で確固たる勢力をもつギリシアとの対立を増大させた。

紀元前480年、カルタゴが大規模な軍事行動を開始した。事の発端は、ギリシアに支援されたシラクサの僭主ゲロンが、島を統一しようとしたことに始まる。この明白な脅威に対して、カルタゴはアケメネス朝と連携をとりながら、ギリシアとの戦争に踏み切った。ハミルカル将軍のもと、三十万人の軍隊が集められたと言われているが、この数字は大軍を示しているだけで実数ではないと考えられる。
しかし、シチリア島に向かう途中、悪天候に見舞われ、多数の人員を失った。その後、現在のパレルモにあたるパノルムスに上陸したが、ハミルカルは、ヒメラの戦い(en)でゲロンに大敗してしまった。ハミルカルは、戦闘の最中に戦死したか、名誉の自決を遂げたと伝えられている。
カルタゴは、この敗北により大損害を受け弱体化し、国内では貴族政が打倒され共和政に移行した。

● 第二次シチリア戦争
共和政による効果的な政策の結果、紀元前410年までには、カルタゴは回復を遂げていた。再び現在のチュニジア一帯を支配し、北アフリカ沿岸に新たな植民都市を建設した。また、サハラ砂漠を横断したマーゴ・バルカの旅行や、アフリカ大陸沿岸を巡る航海者ハンノの旅行を後援している。
しかし、同じ年、金や銀の主要産地であったイベリア半島の植民都市がカルタゴから分離し、その供給が断たれた。
ハミルカルの長男ハンニバル・マーゴは、シチリア島の再領有に向けて準備を始めた。版図を拡大するための遠征は、モロッコからセネガル、大西洋にまで及んでいた。

紀元前409年、ハンニバルはシチリア島への遠征を行い、現在のセリヌンテにあたるセリヌスやヒメラといった小都市の占領に成功して帰還した。
しかし、敵対するシラクサはまだ健在であったため、紀元前405年、ハンニバルはシチリア島全域の支配を目指して、二回目の遠征を開始した。
遠征は、頑強な抵抗と不運に見舞われた。アグリジェントの包囲戦の最中、カルタゴ軍に疫病が蔓延し、ハンニバルもそれにより亡くなってしまった。
彼の後任として軍を指揮したヒメルコは、ギリシア軍の包囲を打ち破り、ゲラを占領した。さらに、シラクサの新たな王ディオニシウスの軍も破ったが、ヒメルコもまた疫病にかかり、講和を結ばざるを得なくなった。 紀元前398年、力をつけたディオニシウスは、平和協定を破りカルタゴの要塞モーチャを攻撃した。ヒメルコはただちに遠征軍を率いてモーチャを救出し、逆にメッシーナを占領した。紀元前397年には、シラクサの包囲にまで至るが、翌年、再び疫病に見舞われ、ヒメルコの軍は崩壊した。

● 第三次シチリア戦争
紀元前315年、シラクサ王アガソクレスは、現在のメッシーナにあたるメッセネを包囲した。紀元前311年には、カルタゴ最後の要塞を攻撃し、アクラガスを包囲した。
探検家ハンノの長男ハミルカルは、カルタゴ軍を率いて事態を打開し、好転させた。紀元前310年にはシチリア島のほとんどを占領し、シラクサを包囲した。
死に物狂いになったアガソクレスは、アフリカ本土にあるカルタゴを攻撃させるため、秘密裏に14,000人の兵士を送った。この作戦は成功し、ハミルカルの軍は本土に呼び戻された。紀元前307年、追撃してきたアガソクレスは敗れたが、シチリア島に戻り、停戦した。
 ⇒ 世界史年表

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