Subject   : アレクサンドロス大王(アレクサンドロス3世)

カテゴリー  : 歴史  


 アレクサンドロス大王(アレクサンドロス3世)
 ギリシアの北方マケドニア(同じギリシア人)は、ギリシアのポリスに比べると後進地域で、ギリシアからはバルバロイ(汚い言葉を話す者たち)と呼ばれ軽蔑されていた。ギリシアのポリスが覇権争いで衰退していく間に力をつけ、フィリッポス2世(在位前359-336年)のときに一大強国となった。

 フィリッポス2世は前369年から2年間人質としてテーベに滞在(テーベはこの頃ペロビダスとエパミノンダスの政権)し、前359年23才で王位に就いた。財政を整備し、マケドニア貴族出身の騎兵と農民・遊牧民を動員した強力な歩兵軍を作り上げる軍政改革を行った。前357年アテネの植民市アンフィポリス攻略を始め、ギリシア各地を併合。前338年カイロネイアの戦いでアテネ・テーベ連合軍を破り、コリントス同盟(ヘラス連盟)を結成した。これによりギリシアが支配下に入り、同時にペルシアに対する宣戦決議を得た。しかし、前336年フィリッポス2世はマケドニア貴族によって暗殺される。背後関係は不明。一時、アレクサンドロスとその母の仕業との説もあったが、現在では否定されている。

 フィリッポス2世亡き後、アレクサンドロス(3世、このとき20才)が王位を継いだ。フィリッポス2世は大哲学者アリストテレスをアレクサンドロスの家庭教師に迎え、12才のときから3年間、プトレマイオスなど同年輩の貴族の子弟と共に彼の教育を受けさせた。アレクサンドロス自身ホメロスの叙事詩に出てくるような英雄を志向し、父の事業であったペルシアへの侵攻を実行した。またその生涯を通じて多くの友人に恵まれ、少なくともその中の5人が東征に参加したうえ、彼の伝記を著した。これらの伝記を元に、後にプルタルコス、アリアノスが「アレクサンドロス伝」、「東征記」などを著した。

 アレクサンドロスはフィリッポス死後、父の葬儀を立派に済ませ、マケドニア北部に起こった反乱や、その間に起こったギリシアの反乱を鎮圧、テーベを徹底的に破壊した。ギリシア諸国は謝罪し、コリントス同盟の継続を確認した。前334年マケドニア軍とギリシア諸国の軍などを加えて東方遠征に出発、翌年イッソスの戦いで、ペルシア(アケメネス朝)王ダレイオス3世を破った。ダレイオス3世は逃亡、その母、妃、娘が捕虜となった。  続いてペルシア海軍の担い手フェニキア艦隊を押さえるため南下、最後まで抗戦したティルスを攻略、海上貿易を押さえた。さらにエジプトの首都メンフィスに入り、アレクサンドロスはペルシア支配からの解放者として迎えられた。
 前331年アルベラの戦いで、ダレイオス3世との最後の決戦を行い、勝利した。その後バビロン、スサを占領、ペルセポリスを焼き払った。一方ダレイオス3世はバクトリアのサトラップ(総督)の裏切りで殺されかけていた。虫の息のダレイオス3世を看取ったアレクサンドロスは、その遺体を丁重に埋葬し、ペルシア帝国の後継者となった。
 この後、旧ペルシア領を支配下に納めながら、東に向かって転戦していった。前326年にはインダス川を渡りインドに侵入したが、さすがにこの時には兵士達がどこまで行くつもりなのか不安になってストライキを起こしてしまった。仕方なくアレクサンドロスは譲歩し、帰途についた。スサに帰還したのが前324年、ここでアレクサンドロスはペルシア王家の王女2人と結婚、側近の貴族、将兵もそれぞれ、ペルシアの女性と結ばれ、合同結婚式が行われた。これはアレクサンドロスがペルシア人と協調して帝国を維持しようとした表れだった。しかし翌年、アラビア遠征を計画中、政務の無理がたたったのか高熱で倒れ、息を引き取った。享年32才。

 アレクサンドロスは、新たに征服した領土にアレクサンドリアという都市を建設した。エジプト・ナイル河口に築いたアレクサンドリアが今でも有名だ。その数全部で70以上。ギリシア兵が住まわされて、現地の人々と結婚、やがて吸収されギリシア文化が広がった。  広大なアレクサンドロスの遺領は、19cドイツの歴史学者ドロイゼンが「ヘレニズム」という語を使い始めて以来、この空間において展開して文化をヘレニズム文化(ギリシア風の文化)、また歴史過程をヘレニズム時代と呼ぶようになった。ヘレニズム時代とは、具体的にはアレクサンドロスから、この空間がローマに包摂される前30年頃までの約300年間をいう。
 ⇒ 世界史年表

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