Subject   : ササン朝ペルシア(Sassanid)

カテゴリー  : 歴史  


 ササン朝ペルシア(Sassanid)
 ローマとの抗争で国力を消耗したパルティアは内乱が多発し、226年にペルシア王アルダシール1世(Ardeshir)によって滅ぼされた。

 アルダシールは、諸王の王(シャーハンシャー:シャーは王のこと)を号してササン朝ペルシアを建国した。その後、アルダシールはメソポタミア全域を占領し、ローマを破ってアルメニアにまで覇権を及ぼした。東ではクシャーナ朝との戦いでも勝利を納め、旧パルティア領の大半を支配した。

 イランの支配者となったササン朝は、パルティア以上に積極的にローマと抗争し、終始優勢を保った。

 244年、ローマ皇帝ゴルディアヌス3世がササン朝へ侵攻してきた。これを迎え撃ったアンダシール1世の子シャプール1世(Shapur)は、ローマ軍を破った。ゴルディアヌス3世は戦死し、莫大な賠償金を獲得して和平した。

 260年、ローマ軍が再度侵攻してきたが、シャープール1世はエデッサの戦いでローマ皇帝ウァレリアヌス以下7万のローマ軍を捕虜とした。ウァレリアヌスは幽閉中に死亡した。

 ササン朝の最盛期はホスロー1世(531〜579)の時代で、西はシリアから、東はバクトリアに至る地域を支配した。 また文化の保護にも力を入れ、東ローマ帝国では異端とされたギリシア哲学を保護したため多くのギリシア人学者が移住した。

 また、西方重視している東ローマ皇帝ユスティニアヌスと50年の和平条約を締結した。この和平は、東ローマが毎年3万枚の金貨を貢納金として支払う条件だった。

 また、トルコ系遊牧民突厥と組んで長年抗争してきたエフタルを滅ぼした。しかし、今度は突厥との抗争が始まり、ホスロー1世の没後は次第に衰えていった。

 611〜616年にかけて東ローマ帝国に侵攻し、エジプト・シリアを奪った。617年には東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに迫るが撃退される。628年に今度は東ローマに攻め込まれ、首都クテシフォンを包囲されるなど泥沼の戦いが続いていた。

 ササン朝と東ローマ帝国が激しく抗争するうちに、イスラム帝国が勢力を拡大してきた。ササン朝は、636年のカーディシーヤの戦い、642年のニハーヴァンドの戦いにイスラム勢力に敗退し、651年に滅亡した。

 ササン朝ペルシアとビザンツ帝国の長年にわたる抗争により、シルクロードが通行不能になり、交易路はアラビア半島に移っていった。このことがイスラム教の成立に大きく影響している。  つまり、アラビア半島のメッカやメディナは貿易の中継都市として大いに繁栄した。この地にムハンマド(マホメット)が登場し、神の啓示を受けて唯一神アッラーへの絶対帰依(イスラム)を提唱した。


 ⇒ 世界史年表

[メニューへ戻る]  [HOMEへ戻る]  [前のページに戻る]