Subject   : 三頭政治

カテゴリー  : 歴史  


 三頭政治
 スパルタクスの乱の残党を掃討したポンペイウスは、BC70年にクラッススとともに執政官に就任した。BC67年、地中海一帯を荒らしていた海賊を征伐する。翌年には小アジアに遠征し、ミトリダテスを破ってアルメニアを保護国とした。BC64年にはシリアに進軍しセレコウス朝シリアをローマの属州とした。続いてユダヤへ進軍しエルサレムを包囲、3ヵ月後に陥落させた。この一連の遠征によって、ローマの領土は黒海沿岸からカフカス、シリア・パレスティナまで広がった。

 ポンペイウスの権勢は飛ぶ鳥を落とす勢いだったが、元老院がこれに反発し彼から軍事権を取り上げた。この時、ポンペイウスに手をさしのべたのが41歳のカエサルで、クラッススと共に元老院を抑え、3人で第1回三頭政治を始めた(BC60年)。ポンペイウスはカエサルの娘ユリアを新しい妻として迎えた。

 スッラの死後ローマに帰還したカエサルは、政治に参画し力をつけていった。BC60年、民衆から絶大な人気があったカエサルは執政官に就任し、ポンペイウスやクラッススと三頭政治を始めた。 カエサルは、ガリア(フランス・ベルギー)に遠征した。ケルト人の一派であるガリア人は激しく抵抗し、戦いは7年におよんだ。最後は指導者ウェルキンゲトリクスをアレシア(Alesia)で破り平定した。この時書いたのがガリア戦記。その後、ドイツやイギリスにも遠征した。 ウェルキンゲトリクス像(クレルモン・フェラン)

 クラッススがパルティアとの戦いで戦死したことにより三頭政治は崩壊、カエサルとポンペイウスの対立が始まった。ポンペイウスは元老院と手を結び、カエサルの軍事権を剥奪し、ガリアからの帰還命令を出した。

 一人で帰れば命が危ない。軍団を連れて行けば反逆者となる。「賽は投げられた」、カエサルは軍団を率いてルビコン川を渡り、反逆者となってローマへ進軍した。不意をつかれたポンペイウスはギリシアに逃れた。BC48年、カエサルはギリシアのファルサルスの戦い(Pharsalus)でポンペイウスを破った。ポンペイウスはエジプトに逃げた。

● 第2回三頭政治
 オクタヴィアヌスはBC63年にローマで生まれた。父は、元老院議員で彼が4歳の時に死亡、母はカエサルの妹ユリアの娘アティア(Atia)。BC46年、カエサルのスペイン遠征に従軍した。
 BC44年、パルティア遠征の司令官として、アルバニアで出陣準備中に、カエサルの暗殺を知る。ローマでは、カエサルの部下アントニウスとレピドゥスが権力を握ったが、遺言によりオクタヴィアヌスが相続人となった。オクタウィアヌスとアントニウスはカエサルの仇であるブルトゥスやカッシウスを追い、ギリシアのフィリッピの戦いで破った。
 オクタヴィアヌスとアントニウス、レピドゥスの3人は第2回三頭政治を始めた。レピドゥスはシチリアをめぐる争いでオクタヴィアヌスと対立して失脚し、ローマは東半分をアントニウスが、西半分をオクタウィアヌスが支配する体制になった。

 アントニウスはクレオパトラに夢中になり、ローマ市民の支持を失っていった。起死回生を図るアントニウスは、パルティアに遠征するが惨敗する。それを取り戻そうと、今度はアルメニアに遠征し、その凱旋式をローマでなくエジプトのアレクサンドリアで挙行した。
 オクタウィアヌスは、アントニウス討伐を決断し、エジプトに宣戦を布告した。BC31年、オクタヴィアヌスはアントニウス・クレオパトラ連合軍をアクティウムの海戦で破った。アントニウスとクレオパトラはエジプトへ逃れた。オクタヴィアヌスに追撃されたアントニウスは自害、その10日後クレオパトラも自害し、二人は同じ墓に葬られた。BC30年、エジプトはローマの属領となりプトレマイオス朝は滅んだ。
 凱旋したオクタヴィアヌスに元老院はアウグストゥス(Augustus:尊厳なる者)」という称号を送り、100年におよぶ内乱は終り、帝政がスタートした。   AD14年8月、アウグストゥスは76歳の生涯を終えた。遺灰はローマ市内のアウグストゥス廟に葬られ、カレンダーの8月は彼の名(August)がつけられた。彼の治世中のBC4年にキリストが誕生している。
 ⇒ 世界史年表

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