Subject   : ローマ帝国分裂と西ローマ帝国の滅亡

カテゴリー  : 歴史  


 ローマ帝国分裂と西ローマ帝国の滅亡
  379年、テオドシウス1世が即位した(大帝。位379-395。最初は東の正帝として)。テオドシウス帝は、侵入するゴート族を破ったのち和解、"同盟者"として帝国内での定住を認めた。380年にはアタナシウス派のキリスト教を国教化する勅令を出し、392年には異教信仰を大逆として処罰することを決めた。西帝をめぐる内紛も鎮め、有能なスティリコ将軍(365-408。ヴァンダル族出身)の尽力もあって、394年には四分統治をやめてローマ帝国最後の統一を果たすが、翌395年死去した。テオドシウス帝は遺言で、17歳の長男アルカディウス(377-408)と10歳の次男ホノリウス(384-423)に帝国を再び分割統治することを命じたが、東側はコンスタンティノープルを首都とし、西側はミラノを首都とする東西のローマ帝国としての統治を継承したのである。よって、ドミナートゥス体制は終焉、ローマ帝国は東西分裂、西は西ローマ帝国(395-476)、東は東ローマ帝国(395-1453。開始年を遷都年である330年ともとらえる場合がある)として別々の道を歩み始めた。

 西ローマ帝国の方を引き継いだホノリウス(位395-423)は政治には無能であり、東と違いゲルマンの侵入や横暴が激しかったため、テオドシウス帝の信頼が厚かったスティリコ将軍が軍務と政務にあたった。スティリコ将軍はゲルマン一派、ヴァンダル族の血を引いており、娘はホノリウスの妃であった。西ゴート族はアラリック王(位395-410)の下で強大化、トラキア・マケドニア・ギリシア・イタリアを荒らし回った。402年、西ローマは、アラリック王のイタリア侵攻の際にラヴェンナに遷都したが、イタリア全土は既に異民族の蹂躙によってかき回されていた。それでもスティリコはアラリックと対戦してアラリックを敗退させ、侵攻を再度にわたって阻止した。この間ホノリウスはラヴェンナの宮廷に閉じこもったままであった。

 官僚や元老院は、次々と軍功をあげていくスティリコを疎んでいた。当初は皇帝も幼少であったため、スティリコを黙認せざるを得なかったが、スティリコはヴァンダル族出身だけに、アリウス派を信仰している異端者というぬぐえないレッテルを貼られ続けた。遂に皇帝側近の反スティリコ派は、成人になったホノリウス政権を確立させるため、讒言によってスティリコを処刑、ホノリウス自身もこれを受け入れた(408年)。スティリコ没後、アラリックはイタリア侵攻を再開、410年、一時的であるがローマ市を陥落させ、略奪行為を行った。アラリックはこの年に没したが、ホノリウス帝との協約により、418年、西ゴート族はイベリア半島において、遂に独自の王国を樹立した(西ゴート王国。418-711)。

● 西ローマ帝国の滅亡
皇帝の権威は失墜し、その後もヴァンダル、ブルグント、フランクなどといった諸ゲルマン民族が次々と帝国内に入り込んでいった。民族移動の影響が少なく、安定していた東側と違い、西ローマ帝国は次々と属州を奪われ、実質的に統治していたのはせいぜいローマ市中心のイタリア半島ぐらいであった。423年にはホノリウス帝が没し、その後の西ローマ皇帝も短命であった。このため、傭兵として雇われたゲルマン人が将軍となって、実質的に実権を握っていき、他ゲルマンの侵攻を阻止するという事態も一般化していき、騒がれたスティリコ将軍時代とはもはや異なってしまっていた。451年には民族大移動の原因をつくったフン族が、大王アッティラ(位433-453)の下で西ヨーロッパ侵攻を行い、西ローマ帝国は西ゴート、ブルグント、フランクらと連合軍を組んで戦って勝利を収めたが(カタラウヌムの戦い)、西ローマの軍隊はすでにゲルマン人傭兵隊長が握る傾向にあった。傭兵隊長は皇帝の権威も動かし続け、西ローマ皇帝を追放し、自身の子を即位させることもあった。

 476年、ゲルマン人傭兵隊長・オドアケル(433?-493)は、当時の西ローマ皇帝ロムルス=アウグストゥルス(位475-476)を廃位させ、オドアケル自身はイタリア王位(476-493)を名乗り、西ローマ帝国は滅亡した。ロムルス=アウグストゥルス帝も前の傭兵隊長の子であった。
 ⇒ 世界史年表

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