Subject   : 北魏

カテゴリー  : 歴史  


 北魏
  慕容?の子の慕容垂によって建てられた後燕と羌の族長姚萇によって建てられた後秦が次第に強大となる。後燕は394年に西燕を、後秦も同年に前秦をそれぞれ滅ぼして領土を拡大し、再び東西での睨み合いとなるかと見えた。しかし、代から改称した鮮卑拓跋部による北魏と匈奴の赫連勃勃によって建てられた夏(大夏)とが次第に強大となる。

後燕は395年に北魏に対して遠征を行い、これに大敗する。翌年に慕容垂が死去した事もあって一気に頽勢となり、その元から398年に南燕が自立。また、北魏により領土の大半を奪われた。407年には漢人の馮跋により高句麗族出身の慕容雲(元の名は高雲)が擁立され、後燕は滅亡する。この政権は2年後、馮跋に乗っ取られて北燕と史称されるが、その領地は遼東と遼西の狭い地域であり、それ以外の領土は全て北魏に奪われていた。

一方の後秦は西秦や後涼との抗争を続けていたが、その配下であった赫連勃勃が自立して夏を建て、後秦に対して強力な攻撃を仕掛けて領土を奪い、最終的に後秦は417年に東晋の劉裕(後の南朝宋の創始者・武帝)率いる遠征軍により滅ぼされる。劉裕は南燕も410年に滅ぼしており、これらの軍功を以って420年に東晋から禅譲を受けて宋を建てた。

劉裕が引き上げた後に夏は長安を奪取し、華北は北魏と夏の2強の形勢となるが、建国者の赫連勃勃は425年に死去する。後を継いだ子の赫連昌は427年に北魏によって首都・統万を落とされ、翌年に捕虜となる。その後弟の赫連定が即位するが再び北魏に大敗し、431年に西秦を滅ぼすも、最後は吐谷渾によって捕らえられて北魏に送還され、処刑された。

北魏は436年に北燕を滅ぼし、439年には甘粛地方を統一していた北涼を滅ぼして華北を統一した。これを以って五胡十六国時代は終わり、南北朝時代の始まりとなる。



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