Subject   : 隋滅亡

カテゴリー  : 歴史  


 隋滅亡
 武徳2年(619)潤2月、竇建徳は宇文化及を攻め、首をはねました。竇建徳は、宇文化及の首を義成公主(ギセイコウシュ)に送っています。義成公主は煬帝の娘で、突厥の風習に従って啓民可汗(ケイミンカカン)・処羅可汗(ショラカカン)・頡利可汗(キツリカカン)と、突厥可汗三代の妻となりました。当然のこと突厥での発言力は強いものがありました。  唐は挙兵のとき突厥の始畢可汗から兵力を借りていますが、こうしたことから、唐と突厥との関係が次第に悪くなっていきました。この時期、唐はまだ群雄のなかの一つにすぎませんでした。全国には大小合わせて20を超える政権がありました。  そこで李世民はつぎに劉武周(リュウブシュウ)と戦わねばなりませんでした。劉武周は隋の北方前線部隊つきの将軍でした。隋の衰えたのを見て独立し、モンゴル地方の突厥に降参して定楊可汗(テイヨウカカン)に封ぜられましたが、中国人にむかっては皇帝と称しました。  唐が西方を攻めているすきに、山西の北部から南侵をはじめました。并(ヘイ)州・晋(シン)州をおとしいれ、山西の南端、黄河の岸まで迫ってきました。実は三男の李元吉は防戦に敗れたのみか、見苦しくも部下を見捨て、自分の家族だけを引き連れ、他人を出しぬいて逃げて帰りました。  そこで今度は、李世民が大将に任命されて、山西の回復に向かうことになりました。李世民は黄河を渡って、劉武周の先鋒の宋金剛(ソウコンゴウ)と対陣しました。李世民は、後方との連絡をたち、兵糧ぜめにしました。宋金剛は本拠地近くまで敗走し、陣容をたてなおして防戦につとめましたが、それも無駄でした。  李世民の先鋒李勣がまず敵に挑戦し、わざと負けて逃げ出すと、敵は誘いに乗って隊列を乱して追いかけてきます。時機をみはからって李世民が自ら精鋭部隊を率いて討って入り、敵の背後に出て後方から突き崩します。見る間に敵は大敗北におちいり、勇将尉遲敬徳らが相次いで降参しました。  宋金剛だけが逃げましたが、それに従う部下はいませんでした。しかたなく劉武周と共に突厥へ逃げ込みましたが、やがて二人とも謀反をはかって殺されました。  武徳2年(619)4月、洛陽の王世充は皇泰主の楊?を廃して自ら帝位につき、国号を「鄭」としました。

 こうして中国から「隋」という国名は完全に消えてしまいました。武徳3年(620)7月、高祖は李世民を洛陽攻撃に向かわせると同時に、長男の皇太子李建成を北の蒲州に派遣し、突厥に備えさせ、背後を固めています。  唐の洛陽攻撃は、秦王李世民が指揮して始まります。唐の来攻に備えて、王世充は竇建徳に援軍を求めました。竇建徳にしても洛陽が陥ちれば次は自分だと考えていました。洛陽攻撃中の李世民は、河北から竇軍が来たの報に、洛陽に一軍だけをとどめ、あとの全軍で竇建徳の援軍を水(シスイ 河南省)に迎え撃ち、大勝を博しました。  この策謀を献じたのが郭孝恪です。李勣も、李世民に従って功を立てました。李世民は、竇建徳に縄をうたせ、洛陽城下を引き回して王世充に示しました。援軍の壊滅によって王世充は戦意を失い、唐に降りました。武徳4年(621)5月、竇建徳と王世充は長安に連行され、王世充は助命され、竇建徳は斬られました。

 いったん赦(ユル)された王世充も蜀に流される途中、地方長官によって殺されました。武徳5年(622)1月、任侠の竇建徳が殺されたことで、その盟友の劉黒闥(リュウコクタツ)が自ら漢東王と称し、同年6月突厥と結んで山東諸州を荒らし反唐戦争を始めましたが、武徳6年(623)1月、劉黒闥は殺されます。  李勣はこの戦いでも活躍し、ついで同年2月の徐圓朗、輔公祐との戦いでも戦功を挙げました。しかし、これ以後、突厥との戦いが激しさを増します。




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