Subject   : 後梁(こうりょう)

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 後梁(こうりょう)
 後梁(こうりょう)は、五代の最初の王朝。唐末の混乱期に、唐の朝廷を掌握した軍閥の首領朱全忠が、907年に唐の昭宣帝に禅譲させて建国した。都は開封。中国では、南北朝時代の後梁(西梁)と区別して朱梁とも呼ぶ。

朱全忠が唐を滅ぼしたとき、晋王李克用ら唐末の混乱に乗じて地方で自立していた軍閥(節度使)が後梁の受禅を認めずに各地で自立したため、五代十国の分裂時代が到来した。

太祖朱全忠は912年、病床にあって養子の博王朱友文を後嗣に立てようとしたため、実子の郢王朱友珪によって殺された。帝位についた朱友珪は人望を得ず、弟の均王朱友貞に殺されて帝位を奪われた。しかし、朱友貞も後唐の荘宗(李克用の子、李存勗)との戦いに敗れて殺され、後梁は滅んだ。こうして後梁の皇帝はみな中道に倒れ、3代16年の短命に終わった。

● 朱全忠
 朱全忠(当時の名は朱温)は唐の大中6年(852年)に宋州?山県の牛溝里に朱誠の三男として生まれる。少年時代に父朱誠(朱五経と称された。儒学者であったとも伝えられる)を失い、二人の兄と共に母の王氏に連れられ親戚に当たる蕭県の富豪の劉崇の家で小作をやっていた。だが彼は農業を嫌って、学問と武芸に励んだため里人の多くは朱温を嫌い、度々主人の劉崇から杖で咎めを受けていた。黄巣の乱が勃発すると、次兄の朱存と共にその家から出奔して、参加し頭角を現した(次兄はその中途で戦死したといわれる)。広明元年(880年)に黄巣軍が長安を落とした後、夏州節度使であった諸葛爽を投降させる。

その後東南方面の先鋒を任され、南陽を攻め落とすなど軍功を立てていったが、河中の節度使であった王重栄率いる数万の軍に何度も敗れたため、黄巣に救援を求めたが、左軍使の孟楷によって要請を握りつぶさる。また兵士の内に黄巣軍の形勢が悪い風聞が流れため、朱温は側近たちと語らい、黄巣から派遣された監軍使の厳實を斬り、王重栄に投降した。これを聞いた時の唐の皇帝であった僖宗は「是天賜予也」と喜んだといわれる。

その後朱温は唐側として黄巣軍を諸侯軍とともに長安から追い落とした。この戦功で、朱全忠は、唐から感謝されて左金吾衛大将軍、河中行営副招討使の地位を与えられ、唐に忠誠を誓う意味である「全忠」の名前を賜った。これ以降、彼は唐の武将として朱全忠と呼ばれるようになる。しかしやがて唐室に洛陽への遷都を迫り、ついにはこれを簒奪し、みずからは晃と改名した。帝位を窺う朱全忠を、兄の全cは「朱三よ、おまえが天子になろうとは何たることか。元をただせば黄巣の一味のおまえを引き立てて下さった天子様の恩に報いるどころか、三百年の社稷を簒うとはこの愚か者め」と罵倒したという。

朱全忠は節度使に昇進した後、黄巣に対し共に戦った李克用と唐朝内部での主導権争いが発生した。朱全忠はこの抗争に勝利し、唐の実権を掌握するに至った。しかし、この頃の唐は長安一帯を保持するだけの地方政権に過ぎなくなっており、各地にはかつての節度使らが群雄となって割拠していた。

904年、朱全忠は昭宗を殺害し、その九男である13歳の昭宣帝(哀帝)を帝位に即け、禅譲の準備を整えた。

905年には腹心の李振・蒋玄暉らの進言によって唐の高官らを黄河へ沈めるべきとの建言を受け、朱全忠も興味を示し実行に移した。こうして、唐の高官であった裴枢・独孤損・崔遠・王溥・趙崇ら30余人を自分の根拠地である河南の県尉などの下級地方官に一斉に左遷して、任地に向かわせる途中の白馬駅で処刑され、その遺体を黄河に放棄したと伝えられる。この事件をもって中国における貴族制は完全に崩壊したと考えられている。

907年、朱全忠は昭宣帝から禅譲を受け国号を梁と定め新しい王朝を開いた。山東の済陰王に降格された昭宣帝は908年に曹州で朱全忠によって毒殺された。

皇帝に即位後の朱全忠は女性関係に節度が乏しく、自分の仮子である朱友文の妻とも関係を持っていたという。

912年、年老いた朱全忠は病気がちになり、後継者を仮子(養子)の博王・朱友文に継がせようとした。それを不満に思った第三子の朱友珪に殺害され、その帝位を奪われた。

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 ⇒ 世界史年表

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