Subject   : 神聖ローマ帝国

カテゴリー  : 歴史  > 


 神聖ローマ帝国
神聖ローマ帝国の正式の名称は「ドイツ民族の神聖ローマ帝国」Heiliges Rmisches Reich Deutscher Nation(ドイツ語)、Sacrum Romanum Imperium Nationis Germanicae(ラテン語)であるが、この帝国が最初からそうよばれていたわけではない。帝国の先駆形態であるカロリング帝国はもとより、オットー1世の時代でも特別の名称はなく、単に「帝国」Imperiumとよばれていた。「ローマ」という形容詞が加わったのはオットー2世(在位967〜983)の時代からで、とりわけ、ローマ帝国の復興を政治目的に掲げた次のオットー3世(在位996〜1002)の時代に一般化する。さらに「神聖」なる形容詞が加わるのは、シュタウフェン朝のフリードリヒ1世(赤髯(あかひげ)王)の時代である。

もともと神聖ローマ帝国は皇帝権と教皇権の2本の柱に支えられた一種の神聖政体であるが、聖職叙任権闘争の結果、教皇権=聖権と皇帝権=俗権の分離・対立が表面化し、皇帝権の世俗化が著しくなり、事態は聖・俗両権の分化という単純な形をとらず、皇帝権も教皇権もともに聖・俗両面を有するという主張を譲らなかった。皇帝側は、皇帝位は教皇によって授けられるものでなく、直接に神の恩寵(おんちょう)と諸侯の選挙によって決定されると主張し、「聖なる教会」Sancta Ecclesiaに「神聖な帝国」Sacrum Imperiumを対置した。その結果、大空位時代の皇帝、ウィルヘルム・フォン・ホラントWilhelm von Holland(在位1247〜56)の時代に、初めて「神聖ローマ帝国」という名称が出現してくる。中世末、皇帝はイタリア支配を維持してゆく実力を失い、国王に選挙されたのち、ローマ遠征を行って教皇より皇帝として戴冠する慣行も、1452年のフリードリヒ3世を最後に後を絶った。神聖ローマ帝国の版図はドイツに限られたわけで、それに対応して、15世紀末より、「ドイツ民族の」という限定詞が付加されることとなった。

● 帝国の変遷
神聖ローマ帝国の歴史的先蹤(せんしょう)は、800年のカール(大帝)の戴冠に始まる、いわゆるカロリング帝国であるが、この帝国もまた、476年に滅亡した西ローマ帝国の復活とみなされるものであった。ルートウィヒ(ルイ)1世(敬虔(けいけん)王)の死後、カロリング帝国は三分され、中部フランクと皇帝位は長男のロタールが、東フランクと西フランクはそれぞれルートウィヒとカールが継承し、東フランクはドイツ王国へ、西フランクはフランス王国へと発展するわけであるが、中部フランクはロタールの死後さらに、ロートリンゲン、ブルグント、イタリアに分割され、やがてカロリング家の王統も断絶した。ロートリンゲンはメルセン条約(870)、リベモン条約(880)により東西フランクに分割されたが、ブルグント、イタリアでは、在地の大豪族たちがそれぞれ王を自称し、対立・抗争を続けていた。

ザクセン朝第2代の国王オットー1世は、このブルグントとイタリアを征服、併合し、この地に残っていた皇帝権の伝統を手に入れることにより神聖ローマ皇帝となるわけであるが、ちょうどカール大帝がローマ教皇レオ3世の手により戴冠されたように、2回にわたるイタリア遠征を行い、962年、教皇ヨハネス12世の手により皇帝として戴冠された。以後歴代ドイツ国王は、即位後ローマ遠征を行い、教皇から皇帝として加冠されることが伝統となった。皇帝独自の権限というようなものはほとんどなく、名目的称号にすぎないが、教皇権の保護者であるという機能により、理念的には西欧キリスト教世界に一種の優越性を有したわけである。この優越性は、ザクセン、ザリエル、シュタウフェン3王朝を通じて若干の変動はあったとはいえ維持されたといえるが、同時に、のちに顕在化する教権と俗権との対立の契機をも含んでいた。

ザクセン朝時代のドイツ王国は、シュワーベン、ザクセン、バイエルン、フランケンなど、いくつかの部族大公領の合成体であったが、これは、部族大公の権力が強まり、在地の部族民との結合が強固になると、絶えず王国を分裂に導く危険を秘めていた。オットー1世はこれに対抗すべく、国家統一の支柱を、国内の教会勢力との結び付きに求める、いわゆる「帝国教会政策」なるものを採用した。大司教、司教、帝国修道院長などの高級聖職者に所領を寄進ないし封土として与え、種々の特権と保護を与えると同時に、彼らを国内統治上の枢要の地位につけるという政策である。この政策はザクセン朝の諸帝および初期ザリエル朝の皇帝によって継承され、かなりの成功を収めた。とりわけハインリヒ3世(在位1039〜56)は、当時盛んになりつつあった教会改革運動の主導権を握り、教皇庁の改革をも助けて教皇権の権威の確立に貢献するところが大きく、神聖ローマ帝国の最盛期を実現した。だが、教会改革と教皇権の強化は、帝国教会政策にとっていわば両刃の剣であった。この政策は皇帝の聖職者に対する叙任権を前提としており、高位聖職者は大司教、司教、帝国修道院長に叙任されると同時に皇帝の封臣となり、皇帝に対し封臣としての奉仕の義務を負うが、これが教会改革の一つの攻撃目標であった聖職売買の一種とみなされ、ひいては俗権による聖職者叙任そのものまで否定される結果を生んだからである。とくに、教皇の至上権の確立を意図した教皇グレゴリウス7世と、教皇の警告を無視してミラノ司教の叙任を強行したハインリヒ4世との争いは、皇帝の王権強化政策と、それに反発する国内諸侯との対立というドイツ国内の政治状況と結び付いて、全国的内乱、いわゆる聖職叙任権闘争にまで発展したのである。

内乱はウォルムス協約(1122)によって収束したが、その間にドイツの封建化は急速に進み、聖俗の諸侯はそれぞれの領邦の樹立と領邦支配権の確立への道を踏み出す。これに対抗すべく、シュタウフェン朝のフリードリヒ1世は、西南ドイツを中心に皇帝自身も自己の領国の形成に努め(帝国領国政策)、皇帝であると同時に、一個の領邦君主でもあるという性格を帯びるに至り、中世後期、帝位が選挙により転々とするいわゆる「跳躍選挙」Springender Wahlの時代には帝国の運命に重大な影響を与えることになる。フリードリヒ1世は、諸侯中最大のハインリヒ獅子(しし)公Heinrich der Lwe(ザクセン公在位1139〜80、バイエルン公在位1156〜80)を失脚させるのにいちおう成功したが、諸侯から授封強制の原則(没収した封は1年と1日以内に再授封しなければならない)を承認させられ、神聖ローマ帝国は決定的に封建国家に転化した。孫フリードリヒ2世も再度にわたり国内諸侯に大幅に譲歩し、諸邦支配権確立の道をいっそう進めた。

シュタウフェン朝の断絶、大空位時代を経て、ハプスブルク家のルードルフ1世(在位1273〜91)が皇帝に選挙されるが、以後帝国では選挙王制の原理が支配的となり、帝位は選帝諸侯の利害によって、ハプスブルク家、ルクセンブルク家、ウィッテルスバハ家などの間を転々とし(跳躍選挙の時代)、皇帝は帝国全体の利害よりも、一個の領邦君主として自家の利害を重視するようになり、帝国の弱体化を招いた。中世末、帝位はハプスブルク家に固定し、帝国の滅亡まで続くが、三十年戦争(1618〜48)を終結させたウェストファリア条約により、領邦君主にほぼ独立国家の国家主権に近い自立性が承認された結果、帝国の領邦国家への分裂は決定的となり、近世の皇帝権はまったく名目だけと化し、ハプスブルク家は家領のオーストリアと西南ドイツの一部のみを実質的に支配するにすぎない状態となった。1806年、ナポレオン1世の保護下に結成されたライン同盟加盟の南ドイツ16領邦が神聖ローマ帝国からの脱退を宣言するに及んで、最後の皇帝フランツ2世は帝冠を辞退し、ここに帝国はおよそ840年の歴史に終止符を打った。

<出典: 日本大百科全書(小学館) >
 ⇒ 世界史年表

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