Subject   : ワールシュタットの戦い

カテゴリー  : 歴史  > 


 ワールシュタットの戦い
レグニツァの戦い(独: Schlacht bei Liegnitz、またはワールシュタットの戦い)は、1241年4月9日にモンゴル帝国のヨーロッパ遠征軍と、ポーランド・ドイツ連合軍が激突した戦いである。 世界的には会戦場であったレグニツァ(波: Legnic?、もしくはリーグニッツ-独: Liegnitz)の地名を用いることが一般的である。ドイツでは「ワールシュタットの戦い」(独: Schlacht bei Wahlstatt)が用いられることもあるが、現代ドイツの歴史でも「リーグニッツの戦い」(独: Schlacht bei Liegnitz)を用いる。なお、ワールシュタットとはドイツ語で「死体の山」を意味する。

ヘンリク2世が中心となったドイツ・ポーランド連合軍には、優れた兵と劣った兵が混在していた。軍を構成しているのは民兵や徴用された歩兵、封建騎士と従者、ホスピタル騎士団とテンプル騎士団からの少数の騎士、そしてドイツ騎士団だった。レグニツァの戦いでヘンリク2世が集めた軍は、年代記や歴史書によって2千[1]から4万の幅があるが、一般的には2万5千人程度[2]であったと言われる。ヘンリク2世は軍を4つの大きな部隊に編成して、主力のドイツ騎士団および他の騎士たちを中央に前衛と後詰めに配し、民兵や徴用された歩兵はまとめて一つの部隊として騎士の後方に配置した。

一方、モンゴル軍がレグニツァの戦いで動員した兵力は2万人[3]だった。前列中央に陽動戦術の訓練を積んだ軽装騎兵を配置し、両側面には騎射や槍での接近戦を行うことのできる軽装騎兵が、後方には正面からの騎馬攻撃を得意とする重装騎兵が控えていた。

1214年のブーヴィーヌの戦いがそうであったように、当時のヨーロッパにおける騎士の戦術は敵の中心への猛攻撃だった。レグニツァの戦いは、まず前衛の騎士たちが軽装騎兵に攻撃を仕掛けて蹴散らされた。しかし、前衛の騎士たちは後詰めの騎士たちと共に態勢を建て直すと再び攻撃した。するとモンゴル軍は中央の軽装騎兵を偽装撤退させて連合軍の主力である騎士団を誘い込み、両翼の軽装騎兵による騎射で混乱に陥れた。そして騎士団の背後に煙幕を焚いて後方の歩兵と分断すると、完全に混乱状態にある敵軍をモンゴルの重装騎兵が打ち破った。煙幕の向こうにいた歩兵は逃げ惑う騎士とそれを追うモンゴル軍の姿を見ると、恐怖に駆られて敗走した[4]。 逃げるドイツ・ポーランド連合軍をモンゴル軍は容赦なく追撃して、おびただしい数が殺戮された。その後、モンゴル軍はオドラ川に沿った地域を掃討していき、当初の目標であったヴロツワフを完全に破壊した。



<出典: 日本大百科全書(小学館) >
 ⇒ 世界史年表

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