Subject   : インカ帝国滅亡 

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 インカ帝国滅亡
スペイン人フランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)は1502年に新大陸にやってきた。当時のスペインは新大陸ブームに沸き、多くの野心家が黄金卿(エルドラド)を求めて海を渡った。バルボアもその一人だった。彼は「南に黄金の国がある」との噂を信じ、探検隊を組織した。この隊にピサロも参加した。1513年、彼らはパナマ地峡を探検中に太平洋を発見した。バルボアは一躍有名になったが、原住民に対する残虐行為の罪で処刑された。この年にパナマ市が建設され、中南米に対する本格的な探検が開始された。

 1524年、ピサロはアルマグロと聖職者ルーケを仲間にし、南の黄金の国を探す探検に出発した。しかし、航海は困難をきわめ、また原住民の攻撃も激しく、パナマからわずか300Km南下したところで挫折した。2年後、ピサロは2回目の探検に出かけた。航海は順調に進み、ついにエクアドルの海岸でいくつかの集落を見つけた。更に南下するとトゥンベスという大きな町に着いた。そこには神殿があり、数知れぬ財宝が眠っていた。

 ついに黄金の国の存在をつかんだピサロはパナマに引き返し、資金集めとペルー征服の許可を得るためスペインに戻った。スペイン王カルロス1世は新たな領土発見に関心を示し、ペルー征服と副王(総督)就任の許可を与えた。

 1531年、ピサロは180人の兵と馬37頭を連れて3回目の探検に出発した。船は一気に南下してエクアドル北部のアタカメスに上陸、そこから11ヶ月かけて陸路を南下しトゥンベスに着いた。そこはすでに廃墟となっていたが、インカ帝国に関する詳しい情報をつかんだ。

 インカ帝国は6年前に皇帝ワイナカパックが病死し、クスコのワスカルが第12代皇帝となった。しかし、北部の町キトを支配する弟のアタワルパ(Atahualpa)が反乱を起こし内戦が始まった。アタワルパは戦いに勝ち、ワスカルを捕虜にした。そして、8万の兵を率いてクスコに向かう途中にカハマルカに立ち寄った。

 カハマルカに皇帝がいることを知ったピサロはトゥンベスを発った。険しい山中にもかかわらず、すばらしい道路が作られていた。道に沿って水路が走り、1日の行程ごとに宿舎が用意されていた。カハマルカまで来ると、山の斜面にインカ陣営の白いテントが見えた。おびただしい数である。スペイン人たちは、インカ兵のあまりの多さに震え上がり動転した。しかし、前に進むしかなかった。

 アタワルパはスペイン人の動きをつかんでいた。そして、200人足らずのスペイン軍を完全に見くびっていた。何度か両軍の使者が接触し、アタワルパとピサロが会見することになった。

ピサロは20人の歩兵とともにカハマルカの広場にやってきた。残りの兵は3隊に分けて広場の周囲に潜ませた。アタワルパは数千のインカ兵に守られ、輿の上で待っていた。従軍司祭バルベルデが皇帝の前に進み出て、キリストの教えを説き聖書を手渡した。皇帝は聖書をちょっと開いてポンと投げ捨てた。これが合図となった。いきなり砲がとどろき、ラッパが鳴り、驚愕するインカ兵を騎兵が蹴散らした。またたく間に多くのインカ兵が鋼鉄の剣でなぎ倒された。ピサロは皇帝の輿に突進し、アタワルパを生け捕りにした。

 インカ兵は鉄器や鉄砲を知らなかった。また疾駆する馬で突進する騎兵を怪物と思い逃げ回った。何世紀もイスラム教徒と戦ってきたスペイン兵は強く、インカ兵は一方的に殺戮された。こうしてインカ帝国は一瞬のうちに滅んだ。

 幽閉されたアタワルパは、スペイン人が金に異常な関心を示すことを知った。彼は部屋一杯の金銀を身代金として差し出したが許されず、処刑された。処刑の前日、彼はキリスト教に改宗させられた。改宗すれば火刑から絞首刑に減刑されると聞いたからである。洗礼名はフランシスコ・アタワルパだった。

ピサロはアタワルパの弟トパック・ワルパ(Tupac Huallpa)を傀儡皇帝に即けた。インカでは、人を動かすには皇帝の命令が必要だったからである。1533年、ピサロは皇帝を先頭に立ててクスコに向けて出発した。スペイン軍は800人に増援されていた。途中のハウハにスペイン人の町を建設し、ペルーの最初の首都とした。

 ハウハを出るとアタワルパの部下だったキト派インカの抵抗が強まった。ピサロは多大な犠牲をはらいながら前進し、ついにクスコに入城した。カハマルカに乗り込んでから1年が過ぎていた。

 クスコの町はあまりにも美しく、大きくて立派だった。スペイン人たちはその姿に驚いたが、すぐに掠奪を開始した。大量の金が集められ、それらはハウハに運ばれて金の延べ棒に変わった。黄金で輝く太陽の神殿(コリカンチャ:コリは黄金、カンチャは部屋)は壊され、その石組みの上にサンドミンゴ教会が建てられた。

 傀儡皇帝トパック・ワルパは、ハウハに滞在中にスペイン人が持ち込んだ天然痘で急死した。僅か数ヶ月の在位だった。ピサロは内戦で敗れたクスコ派インカのマンコ・インカ・ユパンキを皇帝に就けた。彼はキト派インカを憎み、ピサロと手を組んで抵抗を続けるキト派インカを制圧していった。

 キト派インカの抵抗が弱まった1535年、ピサロは新しい首都リマを建設し、そこに移り住んだ。ピサロの盟友アルマグロは、チチカカ湖を越えてチリの探検に出発した。ヨーロッパ人として最初にチリに足を踏み入れ、コピアポ付近まで南下した。クスコの支配はピサロの弟たちに任された。

 マンコはピサロの弟たちに冷遇された。また、スペイン兵がインカ人を虐待する様子が毎日のように報告された。彼は反乱を決意、クスコを脱出して10万の兵を集めた。1536年、反乱軍はサクサイワマン城砦(Saksaq Waman)を拠点にクスコを包囲した。包囲戦は10カ月に及んだがクスコは落ちなかった。やがてスペイン軍の反撃が始まり、反乱軍はウルバンバ川沿いのオリャンタイタンボに後退した。

アルマグロは2年におよぶチリの探検から戻ってきた。何の成果もない命からがらの帰還だった。無一文になった彼はクスコの富を要求し、突然クスコを占領した。征服者たちの醜い争いが始まった。1年におよぶ内戦はピサロが制圧し、辛苦をともにしてきたアルマグロを処刑した。

 インカ反乱軍はウルバンバ川支流の更に山深いビルカバンバに追い込まれた。それでもスペイン人への抵抗は続き、ゲリラ部隊はリマとクスコ間の交通路を頻繁に襲った。

 ピサロは何度も兵を派遣した。また、交通路の安全確保のためにアヤチョーク市を建設した。インカの抵抗が徐々に弱まってきた頃、ピサロはアルマグロの息子によって暗殺された(1541年)。インカを征服し、ばく大な富を手に入れた男のあっけない最後だった。

 インカの抵抗は、1572年に最後の皇帝トパック・アマルが捕らえられるまで続いた。彼がクスコの処刑台に引きずり出されると、群集は悲しみの叫び声をあげた。彼は毅然としてさっと右手を上げた。群集は一瞬にして静まり返り、彼の最後の言葉に耳を傾けた。彼は斬首されインカ帝国は完全に消滅した。



<出典: 日本大百科全書(小学館) >
 ⇒ 世界史年表

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