Subject   : デロス同盟

カテゴリー  : 歴史  


 デロス同盟 
 エーゲ海周辺のギリシア諸ポリス(都市国家)が、ペルシア帝国軍の来襲にそなえて、アテネを盟主として結んだ同盟。

前478年に結成された軍事同盟で、最大時200のポリスが参加した。各ポリスが一定の兵船を出して連合艦隊を編成し、それのできないポリスは一定の納入金(フォロイ)を同盟の共同金庫に入れることにした。実際に艦隊を提供したのはアテネだけで、他のポリスは納入金を納めるだけだった。共同金庫は共通の信仰の対象であったアポロン神殿のあるデロス島におかれ、同盟の会議もそこで開催された。フォロイの管理は十人のアテネ市民に委ねられたので、同盟の執行権ははじめからアテネが握っていた。前454年には、金庫がアテネに移され、さらに前449年にペルシア帝国とのカリアスの和約が成立してペルシア戦争が正式に終結したにもかかわらず、ペリクレスはデロス同盟を強引に継続させた。こうして、アテネはデロス同盟を通じて「アテネ帝国」と言われる支配権をふるうようになった。

一方、ペロポネソス半島内の諸ポリスは、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟を結成しており、次第に両同盟の対立が深刻になり、前431年にペロポネソス戦争が勃発する。

● 三段櫂船
 ギリシアの三段櫂船(さんだんかいせん、トリエレス。または三段橈船とも)は、乗員200名中180人までが三段に設営された板に腰かけて、合図に合わせていっせいに櫂(かい)を漕いだ。漕ぎ手は武器、武具を必要としないから、貧しい市民、最下層の市民つまり無産市民でもなることができ、戦争に参加して勝利を国にもたらす上で大きな働きをした。特に、ペルシア戦争のサラミスの海戦での勝利は三段櫂船の活躍があって可能だった。これ以後、三段櫂船の漕ぎ手として活躍した無産市民の発言力が強まり、アテネ民主政が徹底されることとなり、その全盛期を迎える。

●テミストクレス
 前5世紀前半のアテネの軍人・政治家で、ペルシア戦争でギリシア軍を勝利に導いた立役者であったが陶片追放によってアテネを追放された。まず前493〜2年のアルコンをつとめ、アテネの外港を築いてその商業の発達をうながし、アテネ発展の基盤をつくった。前483年にアテネ近郊のラウレイオン銀山に新たな鉱脈が見つかると、そこで得られた富を、ペルシア軍の来襲に備えて、三段櫂船(軍船)を建造に宛てた。この三段櫂船は前480年のサラミスの海戦でテミストクレスの指揮の下で大活躍し、ペルシア海軍を破った。このようにテミストクレスはアテネにとって大きな貢献をした人物であったが、前470年代の末に陶片追放にされてしまった。アテネ市民は功績ある人物でも、独裁者になる恐れがあると考えたのであり、民主政を守る市民の強さが表れている。なおテミストクレスは、マケドニアを経てペルシアに渡り、ペルシア王アルタクセルクセスによってマグネシア地方の長官に任命され、その地で没したという。

  ⇒ 世界史年表

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