Subject   : 風土記(ふどき)

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 風土記(ふどき) 
 風土記(ふどき)とは、一般には地方の歴史や文物を記した地誌のことをさすが、狭義には、日本の奈良時代に地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して、天皇に献上させた報告書をさす。正式名称ではなく、ほかの風土記と区別して「古風土記」ともいう。律令制度の各国別で記されたと考えられ、幾つかが写本として残されている。

奈良時代初期の官撰の地誌。元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂し、主に漢文体で書かれた。律令制度を整備し、全国を統一した朝廷は、各国の事情を知る必要があったため、風土記を編纂させ、地方統治の指針とした。

 古墳時代の4世紀前半頃までに大和政権が畿内に成立し、其の後に周辺地域を順に支配して統一していきました。其の後、飛鳥時代のA.D.645年に大化の改新があって現在まで続く日本の支配階級・権力者層が作られ、694年に藤原京へ遷都、710年に平城京へ遷都して奈良時代になりました。そして、712年に古事記が編纂され、713年には風土記編纂命令が朝廷から地方の諸国に出され、715年に「播磨国風土記」が編纂され、720年には日本書紀が編纂されました。

 風土記編纂命令は律令制度の基、行政の一環としての税制の基準を定める為に各国に出されたもので、其々の国の中の地名、地名の由来、昔話・伝説・神話、資源・産物、土地の状態を朝廷に報告させる為に編纂させた物です。現存する風土記は播磨国の他、出雲、常陸、豊後、肥前の五つが写本の形で残っています。其々の特徴として、常陸や九州の豊後・肥前は中央系で大和政権が地方の在地の勢力を征伐した事、出雲は在地系で中央の征伐に関しては全く触れていません。播磨の場合は中央系と在地系が半々に書かれています。大化の改新で中央集権化された律令制度の基、皇族・豪族等の私有地・私有民を公地・公民化し、それらを管理する為に五畿七道を定めて交通を整備し、地方を国・郡・里と分け、里の中に50戸、戸毎に戸籍を持たせました。班田収授法によって豪族への土地の集中を防ぎ、公民に最低生活を保障し、国と地方の政府の税収を確保しました。公民は米や特産品等の物納と、兵役・雑役等の労役の重い税を負わされました。しかし、平安時代の925年に風土記編纂督促命令が出されている事から、税負担を初めとして余り詳しく中央に報告したくない、中央に余り従いたくないと言う様な事から、其の頃でも未だ風土記の提出を拒んでいた国が存在した事が解ります。

 

 ⇒ 日本の神様

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