Subject   : デロス同盟とペロポネソス戦争

カテゴリー  : 歴史  


 デロス同盟
 デロス同盟は、アケメネス朝ペルシアの脅威に備えて、紀元前478年に古代アテナイを中心として結成されたポリス間の軍事同盟。アテナイを盟主としてイオニア地方など主にエーゲ海の諸ポリスが参加した。

軍船をキオス、サモス、レスボスなどが拠出し、多くのポリスは資金を拠出した。当初はデロス島で開かれる代表会議で同盟に加わる各ポリスが意見を表明し、拠出された資産を同島におかれた金庫で共同管理していたが、ペルシアの軍事的脅威が薄れたのち、前454年に同盟の金庫はアテナイへ移転された。デロス島の会議も形骸化し、アテナイはデロス同盟の資金や海軍を勝手に流用するようになった。パルテノン神殿の建設といったアテナイの公共事業も、この同盟資金が用いられたと考えられている。

同盟から離脱しようとするポリスには見せしめとして壊滅的な打撃を与えることもあった。はやくから脱退を図ったナクソス島は武力で鎮圧され、タソス島の離脱もおさえられて制裁金が科された。こうして次第に同盟はアテナイが他の諸ポリスを支配する機関へと変貌していった。こうした状況を指して、「アテナイ海上帝国」と形容する歴史家もいる。

こうした「アテナイ海上帝国」の台頭に強い懸念を抱いたスパルタは、アテナイの専制的支配に対して離反するポリスが現れると、これを支援する姿勢をみせることもあった。こうしてスパルタ・アテナイ間の緊張が先鋭化し、紀元前431年には両者の対立は頂点に達し、ギリシアの諸ポリスによる深刻な内戦であるペロポネソス戦争が勃発した。紀元前404年、アテナイの敗北が決まるとデロス同盟は解散した。
 ペロポネソス戦争(紀元前431年 - 紀元前404年)
 アテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発生した、古代ギリシア世界全域を巻き込んだ戦争である。

 アテナイはデロス同盟の覇者としてエーゲ海に覇権を確立し、隷属市や軍事力を積極的に拡大していた。これに対し、自治独立を重んじるペロポネソス同盟は、アテナイの好戦的な拡張政策が全ギリシア世界に及ぶ事態を懸念していた。
これらを背景として、勃興する覇権主義勢力と旧来の自治独立のイデオロギー対立がポリス間の権益や帰結闘争と結びついた結果、「デロス同盟対ペロポネソス同盟」という代理戦争的構図が作られた。

戦争自体はペロポネソス側のテーベがアテネを攻撃したことに始まります。これに対しアテネはペリクレスの発案で籠城戦に持ち込みます。ところが、運悪くエジプトから疫病(ペストか?)が伝来し、市民の3分の1が死亡するという最悪の結果を招き、ペリクレスの息子2人も死んでます。それから程なくペリクレスも死亡。しかし、引き続き戦争は継続されます。
 そして人口の多くを失ったアテネ側は、クレタ島などから傭兵を雇い入れます。 これにより一時は、アテネが有利でした。しかし和平を結べばいいのに、指導者達はなおも戦争を続けます。
 そんな中、前413年、アテネはシチリア島遠征(代表都市にシラクサ イタリア半島の下にある島)で、シチリア・スパルタ連合軍に敗北し、デロス同盟は離反が相次ぎます。そこですかさずスパルタはアテネの農地を荒廃させ、また仇敵であるはずのペルシアの援助をもらって、海軍を結成させます。そして前404年、ついにアテネは敗北し、スパルタに降伏、デロス同盟は解体した。
 アテネに代わって覇権を握ったスパルタに、アテネ、テーベ、コリントスが同盟して戦いを挑み、BC371年のレウクトラの戦い(Leuktra)でスパルタを破った。ギリシアの覇権はテーベに移るが、その後、テーベの覇権も失われ、ギリシアは慢性的な戦争状態に陥り衰退していった。
 この頃、北方のマケドニアが強力になり、BC338年にフィリッポス2世がギリシアに侵入した。アテネとテーベは迎え撃つがカイロネイアの戦いで敗れ、マケドニアの支配が始まった。
 ⇒ 世界史年表
 ⇒ アレクサンドロス大王(アレクサンドロス3世)

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